
東西ドイツ分割と再統合という激動の時代を経て、1990年から統一ドイツの首都として歩き出したベルリン。政治の中心地として繁栄する今もなお残る旧東ドイツの痕跡を探してみよう。




第二次世界大戦後、西ベルリンは英、米、仏へ、東ベルリンはソ連へと分割占領された。東西の往来は自由で、経済格差や政治的不満からベルリン経由で西へ脱出する人が増加し、1960年には約20万人が流出。壁による境界封鎖へとつながった。


1961年8月13日午前0時から、東ドイツは東西ベルリン間の道をすべて封鎖。一夜にして有刺鉄線と土嚢が境界線に積まれ、東西間の通行が不可能に。3日後からブロックによる壁の建設を開始。現存する壁は4度改修を重ねたものだ。



1963年にアメリカのケネディ大統領(当時)が西ベルリンを訪問し「すべての自由な人間は、どこに住もうとベルリン市民である」と演説。大きな感動を呼んだ。壁建設当初は多くの人が逃亡を試み、命を落としていった。


1989年6月27日、ハンガリーとオーストリアとの国境の金網が外され、多くの東ドイツ国民が脱出を試みた。11月には民主化の声が高まり、1989年11月9日に外国への旅行自由化の政令が可決。テレビで政令の発表がされると、東ベルリン市民が検問所に殺到。国境が開き、歓喜に沸く市民による大騒ぎが何日も続いた。

ロシア革命後、1922年に成立した社会主義共和国連邦。当初はロシア、ウクライナなどの4カ国で構成、後に15カ国に。東欧諸国や中国などに影響を及ぼし、社会主義陣営の中心としてアメリカと対立。ドイツではベルリンの壁を建設した。

第二次世界大戦以降の米ソ両体制間の対立を指す。米ソの直接的な軍事衝突には至らない緊張状態が続くなか、双方が勢力圏の拡大を図った。この過程で、ドイツにおいても、両陣営の影響を受けた東西2つの国家が誕生した。

1950〜60年代、ハンガリー、ポーランドなどで発生した反ソ暴動はソ連の軍事介入により鎮圧されたが、1980年代になると東欧各国で民主化の動きが本格化した。この動きのなかで、ベルリンでも壁の崩壊を望む声が高まっていった。
西ベルリンは東ドイツ内の飛び地だったため、東ベルリンとの境だけでなく西ベルリン全体を囲む形に、全長155kmにわたって壁がめぐらされた。
建設の9日後にはもう、越境を試みて命を落とした人がいた。落下や溺死など逃亡時の事故や射殺…、壁周辺の死亡者数は136人(歴史研究センター調べ)とされている。



1.3kmにわたるオープンギャラリー
Eastside Gallery
シュプレー川沿いに続く、ベルリンの壁を利用した1.3kmの壁画ギャラリー。ベルリンの壁に国内外のアーティスト118人による絵画が描かれている。絵画のテーマは自由や平和へのメッセージがほとんど。


目の前のパリ広場からブランデンブルク門の美しい姿を撮影しよう


夜はライトアップされ壮麗な姿に
東西分断の象徴となった門
Brandenburger Tor
ギリシアのアクロポリスにある前門をモデルに、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命で1791年に造られた門。第二次世界大戦直後は東ベルリン側に属していた。1961年に門のすぐ近くに壁が築かれたため、東西分裂時代は通行できない状態が続き、周辺は建物がない無人地帯となっていた。現在は統一ドイツの象徴としてユーロコインにも刻まれている。
Sバーン1・2・25・26 Uバーン5 Brandenburger Tor駅から徒歩5分
Pariser Pl.


高さは意外に低い


手前が東側、奥が西側の壁で、中央の立ち入り禁止区域には見張り塔が置かれた
写真や証言テープなどの資料を展示
Gedenkstätte Berliner Mauer Dokumentationszentrum
ベルナウアー通りにある資料館。この界隈では、145mのトンネルで国境越えが企てられたり、壁の建設中に東ドイツの警察官が逃亡を図ったりと、さまざまな事件が起きた。建物の向かいには、壁の一部が保存されている。

壁の犠牲者を弔う礼拝堂
Kapelle der Versöhnung
かつて西と東の境界線があった場所に設けられたチャペル。西に亡命を図り命を落とした人々のために建造された。周囲にはモニュメントも置かれる。平日12時に犠牲者に捧げる礼拝がある。



検問所の前に国境警備隊に扮した人がいたら通行許可証をもらおう


アメリカ兵とソ連兵の大きな看板が立つ。アメリカ兵は旧ソ連地区を、ソ連兵は旧アメリカ地区を向いているそう
東西ベルリンの国境検問所跡
Checkpoint Charlie
東西分裂時代、英・米・仏などの西側諸国の外国人と西ドイツ外交官のための国境検問所だった場所。当時を再現した検問所があり、国境警備隊に扮した人が旧東ドイツの通行許可証を押してくれる(有料)。

ベルリンの壁に関する博物館
Haus am Checkpoint Charlie
かつての国境検問所チェックポイント・チャーリーのそばに立つ博物館。西側への逃走を図った人たちの記録や、手製の逃走車などを展示。国境越えを図った人たちの資料を見ることができる。

新生ドイツの中心地
Potsdamer Platz
1920年代は欧州一の繁華街といわれ、現在もベルリンの中心地として発展するエリア。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、その後はベルリンの壁が築かれたために長い間放置されていた。広場には現在も壁の一部が残されている。
実際のベルリンの壁を使ったグッズや、壁をモチーフにしたTシャツなど、壁に関するグッズもある。観光案内所やポツダム広場周辺のショップなどをのぞいてみよう。